昭和52年06月21日 朝御理解
御理解 第32節
「女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、おかげがある。またそれを煮て食べる時、神様にいただきますというような心あらば、あたることなし。」
本気で本気で一切を拝む。拝むという時には感謝の心又は、お願い頼むという心。又はお詫びをする心。そういう内容があるのです拝むという。だから拝むと言う事は素晴らしい事です。熊谷さんがお便所を拝まれ、そして日々生き生きとした、草花を便所にいつもお供えされる。そういう長年の秘結が嘘のようにおかげを頂いた。いうならば女が菜園に出て大地を拝む心。ご恩恵によってこんな立派な野菜ができましたという心が込められる。それを見て今度食はする時に神様頂きますという心あらばとこう。
あたる事がないと仰るのですから。お便所一つ使わせて頂くでも、まずならお便所を拝む。天地を拝む同じです。その中にはほんとに、只今からお便所を使用させて貰いますという所が込められる。そこになら気持ちのよいお通じのおかげを頂いた。神様有難う御座います。そこになら健康の順調なおかげに繋がって来る。私はこの拝む事を面倒くさがってはならない。心で拝みますというのと、もう拝むというても柏手でして拝むという、是なんかはほんとに素晴らしい事です。
是は本当にあの是を身に付けなければいけませんですね。地を拝んで行く様な心になればおかげがあると仰る。皆がおかげを頂きたいのですからね。今日もこの自動車に乗らせて頂きます。まぁ自動車が商売をして回る。この人がいうならば本当に自動車を拝ませて貰う。もうそれだけでもおかげが有りと仰るのですから。どうも回って回ってもまぁ商いがない。時には拝み方が足らん時と思うて本気で拝まにゃけん。
小野病院の院長であります、小野タカユキ先生が簡単な手術の時なんかは拝むとをいつも忘れておる。そして出血なんかにならせんようなはずのに出血が、はぁと気がついて拝む。ね。まぁばつが悪い時には便所の中にに入っていって拝む。不思議におかげを頂きますと言うておられますね。先ずならお医者さんがメスを取る時に手術なら手術をなさる前にね、メスを拝んで全ての周囲のものを拝んで掛られるならばおかげがあるとおっしゃるのですから。
なからにゃ私共は確かに一心に拝んでかかればおかげがあるという体験者になると言う事は、教祖様の事を実証する事になるから金光様が喜んで下さらんはずがない。もう朝いつもお願いしとるけんでと言うな事じゃなくてね。女が菜園に出てね野菜を抜く時に大地を拝む様な心。もう日常茶飯事な事です。ね。しかもそれを煮て食する時に、神様頂きますという心があらばあたる事がないと。商売なら商売をさせて頂いてそれが引っ掛る様な事がない、というふうにも頂けますでしょうね。
それを食べてならお腹が痛くなると言った様な事が無いと言う事は、商いをしたその商いが本当に最後まで有り難く頂けると言う事じゃないでしょうか。だからそれをね繰り返し繰り返し稽古をして、もう一生懸命願って拝んで頂きますという心でいけば、こういうおかげが受けられるという、日々のいうならば信心生活の中にそういう体験が、生々きと生まれて来なければいけない。
それこそみ易い事ですけれども疎かに致します。昨日田中さんの毎日あの様にお参りがありますお届けがありました。ご主人が何か首の所にこうぐりぐりが出来た。病名が分からない。それでもこれはやっぱ手術しなければならない。けれども首という大事な所の手術だからとお医者が言われた。昨日病院に行っておられる筈です。私が丁度一週間位前から、ここ皆さんの店の事をずっとこう一通り神様にお願いします時にいつも田中さん、所謂お参りなっておられる奥さんの田中さんの姿を頂くんですけれども。
ここ一週間あまりご主人の方が先に出られるんですね、いつも。克ってなかった事でした。だから先日から合楽会の時にでしたと思いますが、私あなた方のことをお願いすると、この頃ご主人が一番口にあの私の御心眼に映じるが。やっぱ夫婦揃って信心せにゃならんというな事じゃないだろうか。何かお願いしなさらんような様な事が起こってくるじゃないだろうかと言う様な話をしておりました。
それから丁度六日目ぐらい。昨日、医者も言われるように病名が分からん。しかも大事な所だからとこう言われる。それで昨日ほんとに先日から親先生からあのように頂いとったが実は、急に主人が今日入院して手術をする事になりました、というお届けがございましたから。神様にお願いさせて頂きましたらですね、『頼む心あらばおかげになる』。本人が頼むという心になればおかげになる。
だから頼むという心を起こす事と、いうなら起こさない事と言う事は大変に、いうならばまぁ大きく言うなら死と生に繋がる事であったりね。売れるか売れないかと言う事に繋がったりね。結果においてはそれがね、悪い結果になる、良い結果になるという、もう大変なおかげのこのね。例えば商いをする。一生懸命拝んでお願いをして商いが出来た。それがもうあげな所から、もう二度と買わないと言った様な事になるか思うと、おかげの方になるともう同じ買うならあそから買わんならん。
同じ買うならあそこで買いなさいと宣伝までしてくれるという、もう大変な開きになるんですよ。これは商売の事でもそうです。ですから実を言うたら、拝まにゃおられん頼まにゃおられんのです。それでまぁ都合良ういかん時には拝み方が足りんのだ頼み方が足りないのだと思うてです、もう一日拝む事に対して頼むことに対して神様が合点して下さるような体験を頂く事が私はこの御理解32節だと思うのです。
女が菜園に出た時だけの事じゃないね。事務を通る人達がまず事務所を拝みね、いうなら、使わせて頂く帳簿を拝みえんぴつを拝みと言う様なですね。何か面倒くさい様な感じがしますけれどもね、それが本当におかげに繋がって来たら、それこそ熊谷さんじゃないけれども、拝まにゃおられん花でもお供えせにゃおられん。それを知らない以前はただちょっと感じがいい造花でもよいから一輪さしてある。
所が矢張り便所を拝むと言う事はもう便所の神様と言う事はそのまま天地の神様。拝むと言う事になったら頼むと言う事になったらお掃除だけの事ではない拝むだけの事じゃない。それこそ神様にお榊を生き生きと奉らせて頂く様に毎日野の花でも取ってきて瑞々しいお花をまぁ、お供えをするような気持ちになったと言われております。そういう念の入った拝み方。けれどもなら今の田中さんの所場合なんかはご主人が信心がない。奥さんがすぐあのように熱心に信心されている。
だからそんならお前が頼んどいとってくれ、だけでもその頼むという心があればとこういう。これはもういうならばもう言付けてでも、ならお前が頼んどいてくれと。その頼どいてくれだけででもおかげになる。だからどんなに軽う拝んでも頼んでも神様には響く事が分かります。それを段々信心が分からせて貰い拝まずにおられない事になって拝んでくるのですからね。この事が成程食べ過ぎてお腹が痛かったとか何とかちいうならそれは昨日の御理解じゃないけれどもね。
折角の食べ物がそれこそ、却ってめぐりを食べた様な事になるわけです。ね。同じ食べ物であってもね、薬になるかと思いや食べ過ぎたために毒にもなるのです。それでそれならばあの適当に頂いたのに、お腹が痛くなると致しますか。胃が痛むと致しますか。ね。それならばです頂きます時に食事します時に、神様頂きますと言う様な心あらばあたる事なし。その拝むね頂きますという心が確かに神様頂きまぁすといって柏手をして拝んだ事は拝んだばってん。
それが上の空の様なごたる頂きますであったと例えば気がつかせて頂いてね、それを私はあの本当に本気で拝む事になる稽古だと思うです信心とは。形だけ形式だけ覚えてくるじゃないです。ね。足をくじいたあんたが下駄ば履く時に下駄を拝んどらじゃっただろうと、私は言います。そうどくじゃない間違いない。自転車で転がる。自転車に乗る時あなたが拝んどらじゃったと、もうその乗ってから思い出した。
そげん時にはわざわざいっぺん降りてから拝んでから乗る位な気持ちになって、そういう心持ちになればあたることないじゃから。そういう気持ちにならにゃいかんです信心させて貰う。ね。私は信心の入り口一番みやすいと言う事はまず拝む事からだとこう思うんですね。そして一切を拝めと仰るからほんとに拝む。それでもおかげが頂けんなら、まだ拝み方が本当なものじゃないと思うて本気で拝む。
そういう私は拝む姿勢と言う事の中にはね必ず喜び、お礼と又はお詫びと又は頼む、願うと言う事がね入ってくると思うんです。一つ本気でね、矢張りそういうみやすい事から入らせていただいて、信心の有り難いと言う事を悟らせて貰わなければいけないと思うんです。いや拝まなければ先には行かれんという気持ちが出来て来ると有り難いです。もう私共例えばちょっと善導寺なら善導寺まで出ます時に、私は御祈念をせんならとても出切らんです。
それもう平気で私の家族の者なんかは、特に子供達なんかはここへ出てお願いをしてどこんでん行けばいいけども、すうと向こうの廊下から行ってすうとこう行くです。おかげを頂いて御守護の中にあるから何もないおかげを頂いておりますけれども。私はもう拝まずには出れきらんです。又は忘れる事もないですから。もう必ず拝みます。だからおかげを頂いてあたる事なしのおかげ。又、おかげになると仰るおかげを頂いて現しております。成る程正しくそうだなと思います。
女が菜園に出た時だけの事じゃありません。野菜を抜く時又それを煮て食べる時だけの事じゃありません。それが生活の全体にです。しみ込む様なおかげと言うほどしに神様に縋らなければ、本当はここ一寸動けない私というね自覚に立ったら、拝まずにはおられないです。せからしかなんか思うたことはありません。ね。これは私がほんとに体験させて頂いて教祖様はうその教えしておられないと言う事を。いよいよますます体験をさせて頂いております。ね。
例えば自分がなら、職場なら職場で職場を拝む事を忘れとったらいっぺん仕事手を止めてもういっぺん拝み直すと言う様な心があらばと仰るのですからね。心あらばあたる事がないと。やり損ないがない。又はおかげになると断言しておられます。それがおかげにならんなら、まだいうなら大地を拝む心というものがない。で、職場を拝む心もちがまだ薄いと悟らせてもろうて本気で拝む気になってご覧なさいね。そこからほんとに神様を身近に感じさせて頂く事の出来れる日々が約束されると思うんです。
どうぞ。